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2022.05.23
摩訶般若波羅蜜多心経
『般若心経』の経題「摩訶般若波羅蜜多心経」について。
日本で現在使用されている多くの経本では「摩訶般若波羅蜜多心経」と題して読経をします。
学校(足利大学付属高等学校)で使用する教科書(境野勝悟著「超訳 般若心経」)では「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」を経題にしておりますが「仏説(仏が説いた)」が付いたもので意味は同じです。
「摩訶」…偉大な。大きい(大)すぐれた(勝)。
例・現在では「摩訶不思議(とても不思議だ)」などと言う時があります。
「般若」…さとりの智恵。
生かし合う智恵。「エゴ(自我・利己主義)をキッパリ捨て切る」智恵でもあります。
「波羅蜜多」…彼岸に到った。
サンスクリット語paramitaに相当する音写。古くは「度」と漢訳していたものが、唐代になってから「到彼岸」と漢訳するようになりました。「度」とは、「渡った」の意。「到彼岸」とは「彼岸に至った」の意です。ともに完了形で、「絶対の」「完全な」という意。
「彼岸(あちらの岸)」は「さとりの世界」「仏の世界」。その反対側は「此岸(こちらの岸)」で「迷いの世界」です。
「彼岸に到った」とは「心の中に、すばらしい安らぎが生まれた」ということです。
「心経」…核心(エッセンス)のお経。
数多くの般若経典の要点である諸法皆空の理を説いた経典。
「般若心経」は三蔵法師・玄奘(602―664)が漢訳した『大般若波羅蜜多経』600巻の核心を短く262文字に集約したお経です。
経題「摩訶般若波羅蜜多心経」を意訳しますと、
「仏陀が説いた偉大なる(平和ですこやかな)智恵の彼岸(安らぎ)に到った(到るための)核心のお経」であります。
最後にやや難解ですが理解を深めるために、建長寺開山大覚禅師蘭渓道隆(1213ー1278)の「般若心経」についての注釈書「注心経」を記します。(原漢文)
【摩訶】
摩訶は天竺の辞なり。此れ大と曰う。諸仏・衆生平等の自性なり。日月も照すこと能はず、虚空の容れる無し。十方に亘りて涯際無く、三世に透りて程限無し。此れを知らんと欲する、自ずの小心を尽くす。小心とは、妄想・識情又た有無・取捨・空・不空・仏衆生・迷悟なり。若し小心無ければ即ち大心なり。眼に在って見と謂ひ、耳に在っては聞と謂う。漆桶不会。咄、眉毛本眼上に在り。
【般若】
般若は天竺の辞なり。此に智慧と曰う。諸の境界を逐うて真に背く。故に本来無我を知らず。我は即ち愚痴の全体なり。愚痴を離れるを知と謂い惠と謂う。大満禅師曰く、智恵は、愚心を離れるを智と謂う。方便有るを恵と謂いう。智は是れ体、恵は是れ用なり。衆生本来具足す。三世諸佛、歴代の祖師、天下の老和尚、之れを繇(もち)いて妙用を施す。神通を現して、喝を下し棒を行ず。真般若は文字に非ず、蠢動含霊、本来の真性なり。即今且く道え、「那箇か是れ般若」。良久して曰く、「日面月面」。
【波羅】
波羅は梵語なり。此れを「彼岸」と曰う。生死無しは是れ彼岸、涅槃有るは是れ此岸。生死を離れ涅槃を出でるは即ち清浄本覚なり。故に、「淨極りて光通達し寂照にして虗空を含む。却り来たりて世間を観ずるに猶お夢中の事の如し」。今の見聞覚知、起居動靜、歴歴分明なり。夢か、是れ覚か、是れ生死か、是れ涅槃か、是れ垢穢か。是れ諸人自己の命脈上に向かって自から看よ。良久して曰く、「白馬蘆華に入る」。
【蜜多】
蜜多は梵語なり。此れ「到」と云う。仏と衆生、無二無三なり。故に「密」と云う。性は万法を含み、欠少の有ること無し。故に「多」と云う。然るに則ち「密多」は「諸法」と謂うなり。自ら返照して看よ、「天際日上り月下る、檻前山深くして水寒し」。
【心経】
心経は大道なり。小礙無く亦た小法の得可き無し。又た差路なきが故に、無心は「道」と謂う。衆生は知らず、境に隨いて名相を分けることを。又た我見を增長するは、是の故に大道を行ぜず。古人曰わく、「大道は長安に透る」。長安に到り了りて当に王を知るべし。知り了りて豈に他有らん哉。且く道え、即今起居動靜、誰か恩力を得ん。野老は知らず、堯舜の力、鼕鼕(どうどう)鼓を撃て江神を祭る。