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2022.01.10
臨済宗開祖「臨済禅師」の『臨済忌』
本日1月10日は臨済宗を開かれた臨済義玄和尚のご命日忌です。大本山建長寺はもちろん、福厳寺でも日常の朝課の前に「臨済忌(りんざいき)」をとして臨済禅師へのご回向を申し上げます。
臨済禅師の行跡は『禅学大辞典』に記されるものを引用させて頂き下記に示します。
臨済義玄(?ー867)
中国臨済宗の開祖・曹州(山東省)南華の人・俗姓は邪氏・幼少より賢く秀でており、長じては孝行をもって聞えた・出塵の志をもって落髪・受具し、講席に列して経律論を究めたが、ついに済世の医方として退け、南遊して跨州(江西省)黄築山の希運に参じた。居ること三年、行業純一で知られたが、首座の指示で、希運に仏法の大意を問い、三度打ちすえられた・のち高安灘頭の大愚に参じ、仏法無多子として希運の禅をとらえ、希運に嗣ぎつつ、つねに大愚を称えたとされる。北上
して鎮州(河北省)に到り、子城の東南の挿花河に臨む地に小院を構え、臨済院と称した。普化の助化もあって、接化も鋭く、教えは深遠であった。
〔塔記〕では兵乱を避けて院を去り、太尉黙君和の帰依で城中にも臨済院を建てたとされるが、史実とは見がたい・河陽府(河北省)の府主王常侍のために法を説き、さらに大名府の興化寺の東堂に居り、三聖慧然と問答し、威通七年四月一○日(〔塔記〕では翌年正月一○日とする)に示寂した。世寿・法臓ともに不詳。慧照禅師と詮し、塔を澄霊という。
法嗣に慧然のほか興化存奨・醜府大覚.潅漢志閑ら多くの人材を出し、趨州従誌・杏山鑑洪・竜牙居遁・洛浦元安・麻谷二世らとの問答も知られる。無位の真人・無依の道人にみるごとく、徹底した無事禅を唱導し、唐代祖師禅にあっても、最も自由な溌荊とした禅風をもって知られる。とくに棒喝をもって機鋒のするどい禅風を挙揚し、青原下の徳山宣鑑と双壁をなした。また機関として三玄三路や四料簡などがある・後世、臨済宗祖としての面が強調されて、伝記などにも潤色がめだつ・慧然により〔鎮州臨漕慧照輝師語録〕が編集された・本語録は語録の王としても評価も高い。